最近、顕著になっていたデザインへの関心。もしくは、アート一般に関しての関心。
それは、結局のところ、デザイン自体への興味ではなく、その根源にあるものへの慈しみなのだと知った。今朝。
私はプロダクトやインダストリアルのデザイン自体に惹かれるのではなくて、見えないものを見る、そのプロセスに敬意の念を持っていたのだと思った。
その過程では自由と責任は私の範疇にあり、それを生かすも殺すも私次第である。
昔、水野学がいっていたように。「表現されたものを見て、自分も同じことを考えていたと言うのはたやすいけれど、それを形にしたことがすごいことなんです」、と。
それは言葉にしても同じ。デザインも然り。
会話にしても、相手がうまく言葉にできないことを言葉にしてあげると、すぐにラポールなんてできてしまう。それだけのこと。
でも、単純だけど、奥が深い世界。とっても。
私は子供時代から、本当に「芸術」からは程遠かったと思う。「きれい」がどういうことか分からなかったし、「美しい」が絶対的な価値観だと知ったのはついこの間かも知れない。
そのブレのなさに憧れていたものの、いまいち、その懐に飛び込むことができなかった。何度かトライしたのに。
そしてそれはそれで、私のためには良かったのかも。
あのままどうにか美大に行っていたって、私は結局、どうにも成らなかった気がする。適当にプロダクト作ったり、適当に広告の世界だったりしたり。
結局は高慢ちきな部分がどんどん助長され、そういう人たちとたわいも無いことを話していた気がする。そしてそう思うってこと自体、私がそういう世界を選んでいただろうと言う証かもしれないなぁ。
今はもっと自然に、自分のセンターとつながりながら、ゲイジュツにふれ始めている気がする。それは私自身であって、目の前にもあるもの。それはあの人たちが命をかけて、命を削って創り上げたもので、昔のあの人たちのすべてから成っている場。
その深遠かつ広がりのある世界に、やっと一歩踏み込んだのかも。自分から。ようやく。
19歳から始まった言葉の探求は、新たな展開を見せているらしい(笑)。
ありがとう、M! でも、あなたとの出会いの衝撃さからか、私は必要以上にこの世界にどっぷりつかってしまった!ワラ! これからは統合します、私自身とこの世界を。
なんだか私が院を選ばずしてCSを勉強した意味が、ここにあるのかもって思った。
そう、ボストンの私には、マスターを選択できなかった。それは自分のsomatic intelligence のおかげだ!
今、気づいた。ありがとう、私。
そのこと自体、過去10年間、時にずっと後悔し続けてきたけど、反対に感謝できる日が来るなんてびっくり!
CS のデジタル思考、そしてそれは math の論理思考とも合い重なっているんだけれど、それは私の思考の抽象度を高め、どういった話題や議論でさえも、自分の思考ベースに置き換えて理解できるという特技に繋がったんだ! いうなれば、チャンクアップ上手。
それ自体、つい最近、友達からのフィードバックで気づいたことだけど。
そしてそれを極め続けていく過程がすでに習慣と化したからこそ、私は次なるステージの、チャンクダウン、そしてともすれば、「メッセージの伝達/落とし込み」の世界に入ってきたんだ! なるほど~!
そのプロセスにおいて、一番初めに手をつけ始めたことが、例えばプレゼンの練習だったり、アロマやデザインだったり、それこそ催眠だと言うのは、本当に面白いと思った。
そして料理を作っているときに、自分がびっくりするほど勘がさえているということ自体、去年の私には想像もつかなかった。
1年後の私は、どこにいるのだろう。
3年後の私は、何をしているのだろう。
そのとっぴのなさが、突然変異っぽくて面白い。
妙に第3ポジから自分を観ている私だったなぁ、今は。