2010/09/13

無一文になっても...

私たち家族二人が仮に無一文になっても、自分はどうにかしてあげられるって思う

なーんて言われても、まず第一に、私が無一文になる可能性が限りなく低く、そして彼が無一文のままでいる可能性が限りなく高い状況のときには、そういうコメントに対してどうフィードバックすればよいのだろうか。

恋に目がくらんでいる状態のときは、それこそアソシエイトし続けるのかもしれないけれど、現実を背負っている私にその余裕は無いと思う。

アソシエイトする気持ちよさはあるけれど、そればっかりでは自分の思うような生活はできない。


仮に彼女の小学校を外国にする場合、私は何をしてでもその地に住む訳だし、そのための準備もし続ける。そしてそれに関しての何らかの経済的メタファーが必要だからこそ、私はトレードをスキルとして持ちたかったのだ。

私たちが外国に住むと言うことと、彼がその地に来て一緒に住むと言うことは、私にとってはまったくの別次元の話なのだけれど、彼にとっては多くの隠喩を含む同じ地平線上の話なのだということを、彼はまだ気づいていない。

彼が外国に住む準備ができているかなんて、私にははっきり言ってどうでもいい話なのである。世間一般の人たちにそういうことを言ったら、へぇ~くらい言われるかもしれないけれど、そういう思考が当たり前の私やAからしたら、そんなこと、ある意味、日常の延長でしかないし、そのコメントに感動もしない。

住みたきゃ、住めば?

住めるなら、住んでみれば?  だけの話なのだ。 ちょっときついけど、夢見てる彼にとっては。現実逃避したい彼にとっては。

私の現実と、彼の逃避しようとしている現実。 それがミックスされたところに、本来の夢があると思うのだけれど、現実にそういう認識はまったく無い、彼にとって。


沢山の気持ちがあるんだなんて話の前に、行動と結果で見せるべきなのだから。


私は彼のスケープゴートになりつつあると思う。

私は彼の可能性を試せるフィールドであり、底なし沼の愛や官能の世界を体験できる地であるという幻想。


外国かぶれの彼にとっては、外国に行きさえすれば、何でも解決できると思っているのだろうか。


そう、やっぱり現実から目を背ければ、それなりの代償を負うであろうことにまだ気づいていない浅はかさ。


なぜ私がここまで彼に対して辛らつになりうるかといえば、それは彼の持つナイーブさに、私がこてんぱにやられたと言う過去の自分に対しての認識があるからなのだと思う。

そしてそういう彼の世界観の影響を自分に対して許してしまえば、私の大事な彼女にその影響があるのが目に見えて分かるから、私がこの、ある意味怒りを持って、それを阻止しようとしているのかもしれない。

そう、彼の近視眼的思考が私をイラつかせるのだ。

彼は彼しか見えていない。

そして私を彼にとっての救世主のように感じているだけなのだ。


一緒に外国に行く準備はできてるよ、って笑いながら言うことの意図は何だろう。


自主的に外国に住むと言うことは、居住権の確保をしなくてはならないし、生活基盤の安定のために、経済力や言語力、その他、必要なスキルを持っていなくてはならない。はっきり言って、料理ができるとか、主婦業ができるなんて話は、そういうファンデーションがあってから話題になる話なのだ。

それにそういうファンデーションがあれば、オプションなんて死ぬほどついてくる。お金があれば、もとい、お金を生み出すスキルと思考力があれば、世界のどの地でも生きていける。なぜならお金を作り出すというプロセスは、自主性と創造性があることの証だから。

お金を生むことの素晴らしさは、その結果に意味があるのではない。

そうではなくて、そのプロセスこそが、大事な練習過程なのだ。そしてそのことに気づかない人が多いからこそ、世の中は不幸な人でいっぱいなのだ。

お金は悪ではない。お金がないのが美徳ではない。そうではなく、その人が時に悪になりうるのだ。その人が、時に美徳を忘れるのだ。


私の少ない体験からは、私が稼ぎ手で、彼が主夫という構造は成り立たない。なぜなら、私に主夫は必要ないから。そう思い込むことで、私は大好きだった料理を嫌悪し始め、掃除を嫌がり、家事における効率や審美眼を失ったから。

私は仕事をするし、家事もする。ただ、それだけの話だ。役割分担というときに、家事の全般を譲渡する必要もないし、その予定もない。

それよりも、無から有を生み出すスキルやパワー、その創造性や行動力をシェアしたいのだ。見せて欲しいのだ。なぜならば、それこそが、私の生の原動力だからである。


多分、私が求めている人は、私がひきつけられる人は、相互補完できる人ではなくて、お互いの成長を促せる人かもしれない。同じ水平線上で。ゆったりとした波の中で。過去でもなく、未来でもない、その今瞬間の水の動きに注目できる人が、私は好きなのかもしれないなぁ。