2010/09/16

分かるよ ってコメント

あなたの体験を超えるであろう経験の渦中にいる私に、そう簡単に、そしてそう気安く「分かるよ」だなんていって欲しくない。

それは、私の体験を他人は追体験できるはずもない、なんていう陳腐な前提ではなくて、ただ単に、その「分かるよ」ってコメントがチープに聞こえるから。

彼女の泣き声や叫び声を前にして、一体、あなたに何ができるのだろうか。

彼女の喜びや悲しみを前にして、一体、どんな変化をもたらすことができるのだろうか?

おためごかしの遊びはできても、本気でぶつかることなしに、人は変わらない。

それは、彼女も含めて、という論理ではなくて、彼女を、という主体の移動である。彼女は決しておまけではない。それこそが全宇宙なのだから。


わたしにとってのそういう事実を前にして、私はひと時、言葉を失う。そして目の前に広がる地平線。どこまでも続いていくであろう果てしない旅。


簿記の試験を受けるとき、目をつぶってても受かるよ、というのはウソだった。


本気で努力した人が言う、「誰でもできるよ」と言うコメントには、「誰でも適切な努力をした人は」と同義語であると悟るべきだ。

人は屈辱の経験や真の困難をそう簡単には伝えないかもしれない。

でも、その人の強さの原動力こそは、その経験であることが多い。


ただご飯を食べて話をして、一体、彼女の何が分かるのだろう。表面的な成長だけを見て、彼女の悲しみの何を共有できるのだろう。

今の私に分かっているのは、このことだけの気がした。