なんていうんだろう、例えばやりたいことリストみたいなこと書いたとしても、その中のどれかを本当にやるときって、きっとそれをやるべくしてやっているときなんだと思う。
って、また私、いつものように、意味不明? 大多数の人にとって??
私は確かに英語との距離を縮めたかった。それは表現力の向上とかいうことではなくて、イギリス文学から多大なる恩恵を受けたR から、ある種、間接的に学んだことが多かったから。だからこそ、私はその根本の一つである文学ともう一度向き合いたかった。そう、中学生の頃のように。高校生の頃のように。
もはやマニュアルやビジネス書だとか、そんな陳腐なものだけじゃ嫌になった。
つまり、そういうもののすごさもあるけれど、やっぱり古典は古典だし、それにかなわないものが多数存在するからこそ、古典の地位を占めていられるんだよね。
そして、オーディオブックの詩の中から、まずは William Blake とか、American Poetry とかを大人買いした。その無意識下のプロセスのスムーズなこと!
即日届いたCD の一つを車でかけ、私はその壮大な海の中を泳いでいた。
いつものストーリー性の強いCD でないことに気づいたれいれいは、すぐさま、「これって英語?」と尋ね、私はうなずきながら、静かにそれを彼女と聴いていた。あの時、私たちは遥かかなたのイギリスへと旅していたと思う。そして一つずつの言葉の織り成す世界を堪能していたのだと思う。
それは言葉の世界であり、音の世界だった。映像の世界であり、過去の記憶や未来の光。
私はすぐさまトランスに入った。
そしてこういう形でのインプットが、今の私に本当に必要なのだと知った。
ロンドンで観たマクベス。ボストンで観たハムレット。
Wing で初めて接したシェイクスピア。マクベスを初めて読み、ソローやスカーレットレターへと続いていったよね。
そしてそれは、谷崎や尾形光琳へと続く道。
何だか私、ちっとも変わってないんだね。