そういう時は、多分、内なる何かが起こるまで待っているというのも手なのかもしれない。
そしてそれが私のセンターと繋がったとき、「あぁ、そうか」という深い納得感と共に、私の中に幸せが訪れるのだろう。Peace Of Mind だな。
こういうことが、Steve の言う Hero's Journey だったり、Van や Qiang の言う Oneness なんだと思う。
体感覚でつながってきた。世界と。
私もしかしたら、もっと仏道修行の道に入ることになってしまうかも。
というか、仏教で教えていることをもっと自分の生き方に反映させることが、もしも社会に役に立つのだとしたら、それをやらない手はあるだろうか? いや、ないであろう。
それこそが、佛立宗徒なんだと思う。
一瞬心を奪われそうになったコピーライティングは、あくまでも広告のツール。目的は、消費主義が根本にある。
でも、もしその心得を「私が思う」より社会のためになるであろうことに使えるのなら、それは使わない手はないのではないか。
争いが消えないのは、争いを消そうと思ってないからかも。
憎しみが消えないのは、憎しみを昇華させようと思ってないからかも。
自分の中のそういった思いをもっと別の次元の何かと統合できない限り、そんなことを人になんてできるわけない。期待できるわけない。
そしてそう思う自分がいることが、今の世界の中の期待なんだと知った。たった今。
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