2010/04/27

「リフレーミング」を読んで

2010年 4月 26日

マスタープラクティショナー 課題図書 リフーミングを読んでの考察

 リフレーミングは、NLPを習った今でこそ大きな意味を持つ単語の1つであるが、実際、NLPを学問的に学んだことのない人々も、あるカテゴリーに属する人々にはすでに備わっている思考形態だと思う。その種の人々とは、「前向きな人」や「柔軟な人」たちである。彼らは、特にNLPを学ばなくても、彼らのおかれている状況下において、その人にとって「その結果に意味があり、納得」できるものの見方を「自然に」していることが多い。つまり、習慣化されているのだ。世の中では、それをポジティブ思考と呼んだりもするが、私はそれをあえて「中立思考」と呼びたい。それは、起こった結果を単純に「良い」「悪い」の2元論で片付けることに意味があるのではなく、常にいかなるときも自分のそれまでの思考をゼロベースにし、その結果、無限の選択肢、そしてそれは最終的に自由を意味することになるのだと強く信じているからだ。つまり、リフレーミングで得られるものは、異なった見方や価値観といった表象のものではなく、真の自由なのだ。

 実際、6ステップリフレーミングなどでは、クライアントがある行動を起こすとき、その無意識的な肯定的意図を確認し、さらにそれを満たす代替案をいくつか出すという過程を踏む。さて、そこで選んだ代替案は、以前の案より良いものなのだろうか、というのが私の質問なのだ。そして私の答えは、その行動環境や状況の時間的、そして意味的な枠組みによるということだ。つまり、この世に絶対的な答えは存在しない。そして真実も1つではない。こういった信念を持つと、すべてが相対的な価値になってくる。ある時期にはいいと思った行動が、時間の経過とともに、良いとは思わなくなったとしよう。そうした場合、「中立的な思考」においては、そのことには何の意味もない。変化はいいものでも、悪いものでもない。ただ、その個体において必要だったから、その変化が起きたのである。その「変化」に必要以上の意味を見出そうとすることは、単純な自然界の摂理を、人間の色眼鏡を使って屈折した形で捕らえる結果になることが多い。そして、人間の葛藤の大部分は、物事に何らかの意味を必要以上に見出そうとすることに起因するのではないだろうか。

 最後に、リフレーミングは、知覚面における有益な体操である。たとえば、比較的単純に、言語を使って、ある人の体験の解釈を根本的に変えることができる。しかしここで重要なのは、コンテンツとしての解釈Aを解釈Bに変えることができるということではない。リフレーミングは、そういった思考の固定化による「偽の安定」を生むためにあるのではなく、解釈Aが、いかなる解釈にもなりうるという思考の自由化による「無限の可能性」を開くための術なのだ。リフレーミングのスキルが上達してくると、言語による解釈の変化という平面的な要素に加え、VAKなどの立体的要素や時間的要素も加味した解釈が可能となる。それは、例えばタイムラインなどのワークでも実験は可能である。

 リフレーミングの基礎や理論、そしてその方法論は、プラクティショナーコースやマスターコースで学ぶだろう。しかし、それをベースにした応用は、今、この瞬間に自分の目の前で起こっているのだ。それは、今、こうしてタイプしているときでさえ、今までの直接的、そして間接的な体験や考え方、モデリング、そのほかすべてのことを無意識的、もしくは意識的にリフレーミングし、それを元に自分の可能性をより無限に近づけているのだから。

 リフレーミングは、時に砂漠に落ちた針を拾うがごとくかもしれない。そしてそれと同時に、目の前にひろがっている広大な海をきらめく光の群れでもある。それは時に声を潜め、あなたの前から遠ざかっていく感覚を覚えるかもしれない。しかし耳を澄ませば聞こえてくるのだ。今、そこにあって、同時にそこにはないものを見つける行為、もしかしたら、そういったものが、私の求めている究極のニューコード的リフレーミングなのかもしれない。

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