今朝、車でBonjour Tristesse を聴いていた時に思った。シャドーイングしながら、水曜日にれいれいを待っているときに、車で本を読みながらインプットしていた文章がイメージで出てきた。
今、外国語のマスターを、NLP的に自分のものにしようとしているみたい。すべての回路を使いながら。そしてこれは加速学習にも繋がるんだけど。
現時点で、私はフランス語を少なくとも今の英語レベルに持っていけるという自信を体感できている。今朝、車で感じたのだけれど。一貫性というか、非常に無駄のない、されど体全体で感じる感覚にあふれていて。確かあそこの交差点を曲がろうとしたところだったよね。
英語をマスターしたときの感覚を思い出せるから、そしてそれと同時に、どうすれば必要以上に時間がかかるかも知っているから、英語のときよりも短期集中であれだけの結果が出せるという自信が出てきた。
私には、あと7ヶ月でフランス語をマスターする肯定的意図がある。
そして、その後に、さらに続く外国語ちゃんたちが待っている。
まずは現地に飛ばなくても、私はマスターできるという確信。
そんなにお金をかけなくても、私は効率よくマスターできるという自信。
話してみたいと思っている12言語を、私は必ずマスターできるという喜び。
言語帝国主義という考え方もありだと思う。昔、付き合っていた M みたいに。
でも、あれだけ論理の美しさを彼から学びつつも、ここであえて反論したいのは、どうしてあの極端な二元論に収まることしか術を持たないのかということ。
言語に優劣はないと思う。
それでも、共通言語としては優先順位はあると思う。
そして、それでもなお、美しいと思える少数言語は、星の数ほどあると思う。
私がそう思い続ける限り、自分の世界を広げるために、私は言語をマスターし続けるのだと思う。
そしてこの思いは、子供がウルトラマンに夢中になったら、突如としてエレキングとかメビウスとかを覚えるのと同じだと思う。
そう、大人も子供もそれほど変わらないのだから!