過去を変えるのは、その意味を変えるという次元において可能であるのだと思う。
それでは、その過去において達成できなかったことに再度チャレンジし、今度こそそれを成し得るということで、過去の意味は変わるのだろうか。
もちろん、変わるのだと思う。そして、これは、自分にとっての根本的なチェンジワークなのだと思う。
人は、簡単な方法でチェンジできるからといって、いつもその方法をとるのかどうかといえば、それは疑問である。
それこそ、昔、黒板に大きな山を書いて、「皆さん、この山をどうやって登りたいと思いますか?」という質問自体が、それはあくまでも我々をして「一番最短距離で登りたいです。」と言わしめようとした誘導尋問だったことを思い出した。
そしてそこに偶然いた私の母は、「いろいろと寄り道しながら山を登っていきたいです:)」と応えて、スピーカーとのラポールが一瞬、崩れたのを思い出した。
そう、うちはそういう家かもしれない。もしかしたら。
私にとってニューコードNLPは、あくまでも原点だったのかもしれない。そこから色々なことが始まり、質問を問い始め、自分の人生を自分の足で歩み始めた。
今の私は、過去の自分の足跡をメタポジションからとても客観的に俯瞰している状態かもしれない。その場のエネルギーをどうにかして昇華させようとしている途中なのかもしれない。
今朝、偶然にも図書館で見ていた雑誌に、ハーバードの学長さんのコメントがあった。極論は、こんな感じだった。「韓国や中国人の学生と比べて、日本人の留学生の存在感は余り感じられないと思う。」Voila!
シンガポールで会ったジョンは、私が中国人の女性だと思ったらしい。
彼曰く、日本人で結婚していて子供までいるのに、トレードなんてことでわざわざ外国にまでセミナーを受けに来ているなんて。それに、君ほど英語ができる日本人は、そういないよ。
その時はまぁまぁなんて思っていたけど、そのあと何年かたって思った。確かに私の周りは普通すぎる。
それは別に普通がダメなんじゃなくて、私が別の世界を探せばいいというだけの話し。
何があって私は自分の英語力を全然活かさないんだろう。
よく「毎日、どの位英語を使って生活しているの?」って外国の友達に聞かれるけど、はっきり言ってほぼ使っていない。それなのにどうしてそんなに話せるのっていつも驚かれる。うーん。
そして私もその理由は分からない。
でも、英語に関しての自分のコンプレックスを突き詰めていくと、やっぱりいろいろな肯定的意図や、昔のトラウマとか、いろいろなことを思い出せるかも。
そしてその思いが強いから、だからこれほどまでにボストンに執着しちゃうのかな。
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