2009/09/09

C ちゃんの10年

腐れ縁の私の大親友 C は約9年前に働き始めた。それまではprofessional student で、学費や生活費はすべて親持ち。お金の心配は何一つしていなかった。


彼女が学生の頃から、欲しいものはそれなりに手に入れられて、やりたいことは、ほぼ全てやれていた。やれるかやれないかは、お金の問題ではなくて、本人の情熱とやる気だけの問題だった。それなりの反抗期を過保護な親の庇護の元に過ごし、気が付くと居心地の良さを外の世界に求めていた。


自分を変えることが難しければ、環境を変えれば簡単だよ、が彼女の信念であり、行動規範だった。事実、環境を変えることは、いともたやすく行っていた。そしてそれに伴うお金の心配も、まったくなかった。すぐにお金が動かなくても、最終的にはどうにかなったのだから。


彼女はとにかく行動を起こすタイプだった。自分の好きなことに対しては鼻がかなり利いたので、周りから見たら見切り発車と思うようなことでも、すぐに最初のステップを踏んでいた。好きな人もころころ変わり、好きなこともころころ変わっていた。確かに1つや2つ、絶対に譲れなさそうなことがあったみたいで、それとは上手に付き合っていたけれど。それ以外は本当にころころ変わってたな。


彼女、世の中は無常だって知ってたのかな。



たくさんの本を読んで、いつも何かを空想してた。学校では別の意味で目立つこともあったけど、特に何かに秀でていたわけではなく、彼女の世界は、いつも外と、自分の内にあった。


中へ、中へと向いていた彼女の関心が、少しずつ外に向き始めたことがあった。それはある体験をきっかけとしていたのだけれど、それから彼女は本当に変わった。使用前、使用後のような大変身は、友達ががらりと変わり、取り巻く世界が変わり、完全に別人のようだった。電池でいうマイナスとプラス。両極端な磁極の空間を楽しむことなく、その両極端にしかいられない、そんな不安定さを隠し持っていたのかも。


そんな彼女が働き始めて、まったく別の磁場を作って成長し始めた頃の関心は、お金しかなかった。今まで忌み嫌っていたもの、一番関心がなかったものを、まるで取り付かれたかのように追い求め始めた。組織に属すこと、何かを達成すること、成功すること、人に認められること、束縛されること、ルールを決めること、同じ毎日を過ごすこと、そういったことに彼女の生きていることの全てをかけているようだった。


ほとばしるエネルギーや情熱は測量可能なものにだけ注がれた。機能的で効率のよいもの、そんなものにだけ関心があった。限りない程の自己中心的な生き方は、まるでそれまでの彼女の不安定さを支える感じだった。必要なものだけをつかみ、無駄を限りなく排除していた。


それでも本人が望む結果からは程遠く、彼女の中の猜疑心がどんどん大きくなる一方だった。


人からの肯定的なコメントは、すべて彼女の見せ掛けにだまされたゆえのものだ。私が彼女の中にどうしようもなさそうな弱さや不安定さを見ていたとき、人は彼女に自信と基盤を見出した。


彼女の中でまだまだ大きな根をはっている不安定さは、見かけだけの自信に大きく覆われていた。薄っぺらい知識や経験にも関わらず、人は彼女に知性を見出した。いつ絶えるか分からない銀行の預金通帳に反して、人は彼女をお金持ちと評した。


どうしようもないほどもがいている彼女は、ゆらぎに安定さを求めないで、代わりに、伝統に答えを、そして、未来の彼女を映し出していた。しばらくしてから富裕層だけのサークルに入っても、うまくなじめていない彼女がいた。人をだますことはできても、自分をだますことが苦痛なようだった。メンバー全員は彼女が演じきっていた「未来の彼女」にだまされていた。彼女の言葉は彼らの心に染み入っていた。人々は彼女を崇高し、心のそこから尊敬していた。もしかしたら、彼女は他人をだませばだますほど、自分に嫌気が差していたのかもしれないけれど。


私には分かっていた。彼女の苦痛と葛藤と叫びが。でも、それは彼女が通らなければならないだろう道のように思えた。彼女があれ程渇望している自由にたどり着くためには、あの頃の葛藤の門を開けることなしには本当の1歩さえ踏めなかったのではないだろうか。


本人も自分の不自然さに気づきつつも、もはやその罠から逃れられないと思い込んでいるようだった。


それは全て見せかけだった。親の力。拭い去れない劣等感からくるいくつもの嘘。虚栄心。競争心。それに気づきながらも、そこから離れることができなかった。



そんな彼女が、ようやく目を開けて自分を観た。しげしげと。冷静に。


それはある日、突然やってきた。彼女が一番望んでいて、やっきになっていたことが、過去の10年間で全然状態が変わっていない、もしくは、状況が前よりずっと悪くなっていることを初めて「自然に」受け入れたとき、何かがようやく彼女の中ではじけたらしい。何かが芽生えてきたらしい。


結果が思うように出ないとき、それはもしかしたらあり地獄にはまっているときかもしれない。同じプロセスを、まったく異なるコンテンツで行っている時のよう。本人はそう簡単に気づくことはない。だって頑張っているんだから。だってまじめに取り組んでいるんだから。だから彼女も、自分がやっていることが違うんだって気づくまでに約10年かかってしまった。


でも私は思う。10年をかけてでも彼女に学んで欲しいメッセージが、その10年にあったのではないか。彼女の経験した10年分の葛藤は、彼女の無意識レベルで十分すぎるほど、体験しているのだ。だからこそ、その葛藤を抜けて統合ができたとき、その深さ以上の新しい何かが生まれるのではないだろうか。


生まれるべくして生まれたもの。そう、無意識は、そんなのとっくに分かっていたのだから。そのものが大きすぎて、彼女が思っている以上の時間がかかっていたみたいだけれど、それほど大きなものなのだから、もしかしたら、しょうがなかったのかもしれない。彼女のスケールの大きさに合っているから、まぁいいか、友達として。ソウルメートとして。


山高ければ、谷深し。


絶望を味わなければ真の喜びを感じられないとはいわないけれど、葛藤が一直線にすっと体から離れていったときの感覚を味わえるからこそ、次なる葛藤を受け入れる準備が、ステップが、できるのではないだろうか。


矛盾の中に純粋さがあるのかもしれない。


そして彼女はそれを体のどこかで分かっていたからこそ、毎日一歩一歩を踏みしめていたのかもしれない。


そうやって考えると、彼女、本当に頑張ったよね。コンテンツを通して、プロセスを学んだよね。彼女の今の生き方は、あの10年なしにはなかったかもね。

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