"Allow others to give you loving care.
Receive without guilt or apologies."
あなたは与える側の人です。いつも人のためになりたいと色々なことを考えています。
受け取ることで栄養補給ができ、あなたと周囲を取り巻く男性性と女性性のバランスを保つことができます。
受け入れることを自分に許可すれば、停滞しているエネルギーが動き出したところへ新しい豊かさが流れ込み、面白いアイデアが沸いてきます。
そして、たくさんのチャンスが訪れ、これからの人生の流れをスムーズに泳ぐことができます。
受け入れることは一見単純に見えますが、大きな癒しを生み出し、夢を現実にするプロセスが動き出します。
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そっか、「現状を一番表してるカードを引かせてください」
と無意識に頼んで出てきたこのカード。
その意味が分かった。
つまり、このカードを約半年前に引いた私の母と一緒に、いつも、何かにつけて、Y のことを言っているけれど。
それって、つまり、Y が私たちのシャドーだってこと。
私たちは、必死で「自立」しているのに、時に大声を上げて泣きたいことだって数多くあるのに、そのすべてを自分だけで受け入れて、自分の足で立って、人にはそれの微塵も見せないでいて。
いつもパワフルだよね、とか、いつも笑っているよね、とか。
それって頑張ってるからそうなんだよ。
いつもそうしようとしてるから、それが習慣になったんだよ。
別に生まれたときからそうじゃない。
私はそうなろうと思ってなっただけ。
そこにはものすごい努力があったわけで、それなしには変われなかった。
ニューコードNLP的な生き方を前から「自然に」していたのではなくて、
必死にRenshu Renshu Renshu したからこそ、それが身についただけ。
そういう「努力」をしながら男性に負けないように一生懸命生きている私たち、もしくは、(この解釈は私だけなので、あえて「私」でもいいけれど)、私の苦労が台無しになっている気がするんだよね、Yを見ていると。
どうしようもなく怒りにも似た感情が心の中で渦巻いている。
そんな簡単に甘えないでよ、って怒りたくなる。
問題が発生したから「はい、私は頑張ったけどできませんでした」って、何それ?って感じだよね。
私たちには、その選択肢がなかった。
決してできないかもしれないけれど、そんなこと、今、この瞬間に考えていたってどうしようもないじゃない。何も生まれないじゃない。
私が何かしなきゃ、何も変わらないじゃない。
って...
そっか、今、自分で答え出したね、この自分の葛藤に。
そう、「選択肢がなかった」のが問題。
「選択肢を作らなかった」のが、「選択肢が見えなかった」のが問題。
はぁ。
私の中に、Y みたいに「ほとんどの責任を投げ出して、誰かに助けてもらいたい」って思いがまったくなかったら、私は Y を嫉妬にも似た気持ちで不快に思うこともないだろう。
人に助けてもらって恥ずかしくないの? なんて不遜なことを思うことなんてなかっただろう。
今、目が開けてきたよ。
私の今の生活は、生き方は、世界のどこかにいる人の犠牲に成り立っていることかもしれない。
ううん、犠牲っていうか、甘えさせてもらいながらの生活なんだ。
だから、そういう自分のパートをもっともっと認めてあげればいいんだ。
多分、今までって、そういう部分を認めていないから、そういう甘えさせてもらっていることに罪の意識があった。
「子供を実家に預かってもらっているのに、何でそんなに遠慮しているの? 」っていうコメントをした数人の人には、私が持っているこの罪の意識がないんだろうな。ある意味、健全だ。すごく。
私が自己完結型なのは、あえてそうなるように努力してきたからそうなっただけ。
でも、自己完結性の持つ限界に対してのコメントは、この間の最後のワークで、S から言われて気づいた。
彼は、「私にはポテンシャルがあるからあえて辛口のコメントを言う」って言っていた。
なんてありがたいことだろう。
今、気づいた。
私がこの「甘えたい自分」のパートを認めない限り、私のキャパは大きくならないんだ。
私があえて積極的に自分よりもっとすごい人の懐へ入っていかないのは、この甘えたくないっていう葛藤からだ。
私は与えて、与えて、与えての生活に慣れすぎていた。
もっと受け取らなきゃ。
もっとバランスよくしなきゃ。
私が目指すは「循環型関係性」。
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